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住めば都

気が向いたら、好きな俳優、観劇記録や日常ごとを独断と偏見に満ちた表現で書き散らかしています。思考が合わないかたはごめんなさい。

Spiral @横浜アリーナ 8月1日夜、2日

きんき

前回のGravityから約3年。

ファンクラブに入ったばかりの姉名義ときんき友人名義が当たってバンザイ。

横アリ行ってきました。
光一さんがMCで何を話そうとしたのか思い出せないあたりで、
確かにど忘れはあるにせよ、かなりふわふわな様子で倒れてもおかしくない疲労度を感じる。
空調を効かせていても、観客も身体を動かすわけだしとても暑かった。
観てきた今思うのは、ファンに求められているからこそ頑張ってしまうひとだね。
光一さんのパフォーマンスは、ファンへの愛でできているのか。。 
前回のGravity同様きみまろ風なMCをするなかでも、そういう本人の自覚が垣間見える。 
 
照明や装置の素晴らしさは加速していて、これ以上どうしようと言うのだ!という感じ。
天井から通路が降りてくるし、照明は思いのままだし、儚さと力強さと、
性別を超えたセクシャルな愛が感じられる光一さんが作り出す空間。
素敵なダンサーさんたちのサポートと演出も相まって、本人が曲やダンスによって男性的かつ無性的にも女性的でさえもある瞬間があるのだ。
神様に捧げるものが芸能だとすると、光一さんは選ばれた稀有なひとなんでしょうね。
そういうふうに感じる己が何か見てはいけないものを見たのか、という怖れを抱くにいたる…。
うまく言えないけれど、どういうのがセクシャルな愛かって経験値含め人それぞれでしょう、そういう想像する余地がありすぎる!
直裁な「色気」というよりも、愛の雰囲気というのかな。
子どももいいけれど、大人だとより楽しめる異次元な空間です。
 
コンサートの話なのに、抽象的すぎる話になってしまった。
光一さんの歌声は、気持ちはあるのに届きそうで届かない、様々な隔靴掻痒なシチュエーションに合うと勝手に思っている。ちぎっては投げ(わかるひとだけわかってください)、の歌が多いけれど、ね。
5分間のドラマと呼ばれる歌の世界を演じられるのは、きんきさん2人ともの強みで声がマイナーだから、かもしれない。
 
1日夜は、リップサービスや個別のファンサービスはほぼないけれどサイド席のひとたちへ温かな気遣いがあり、スタンドのひとたちへ近づく動きがある。サイド席はダンサーさんの筋肉の動きがわかるくらいの近さで、何が見づらいかというと、反対側からのスポット照明が目に入ることが時々あり、ステージがほわっと見えなくなるのです。ただ照明は刻々と変わるので、ひどく困るとまではいかない。
2日は、スタンドでしたが正面で視界を遮る物がなく、演出意図がわかりやすい席。
照明の繊細さや装置の充実度、機構のこまやかさがすっと目に入る。
メインステの無影灯ごとく如何様にも動くスパイラルな照明必見。
オープニングは、特に映像もなく音楽(インストゥルメンタル)と照明だけで構成されていて、照明さん冥利につきる。
照明は何を見てほしいのか、何を見てほしくないのかを明確に示す。
これを使いこなすと空間を支配できるわけだから、ファンは光一さんの空間に嬉々として閉じ込められに来るわけです…。
次に何が出てくるのかをいつも期待させ、その予想を超えたものを提示してくる。
わくわくするって簡単じゃなくなって久しいのに、それが叶えられるしあわせ。
そして光一さんの演出がわくわくするのは、過去のコンサートを振り返るコーナーをつくることはあっても、安易になぞらないからだと思う。今回は以前の曲をうまく織り交ぜてリミックスにしていた。 INTERACTIONALとディープ。
 
 自分がやってある程度うまくいったことをなぞらないのは、何の分野でも難しい。
ひとは、自分の成功体験から逃れがたい。もちろん1社会人のわたしでさえそう感じる。。
いいスタッフに恵まれて、いろいろ試せるのでしょうね。
 
きんきさん二人のステージつくりの姿勢は私見ですが、やはり違っていて興味深い。
剛さんは、ベースの音楽は変わらないけれど、一度作ったものは完成形として見せてくれて、それをきれいに壊して更地にして、また新しいものを1から作り出す。何度も生まれ変わるイメージ。
光一さんは、違うように見えて実はひとつのものをずっと作り続けていて、それを直してその瞬間は完成形なのだけれど、そこからまた作り替えたい部分がでてきて、自分が作ったものからずっと脱皮していくイメージ。あ、これはSHOCKのことそのままだね。
ソロコンも同じだと今回しみじみ思う。
 
とりあえず、都合がつけば休みが取れれば、チケットが手に入るなら、もう1度観たいステージだった!!