住めば都

気が向いたら、好きな俳優、観劇記録や日常ごとを独断と偏見に満ちた表現で書き散らかしています。思考が合わないかたはごめんなさい。

秀山祭九月大歌舞伎夜の部 9月19日(土)通し狂言「伽羅先代萩」

www.kabuki-bito.jp

秀山祭行ってきました。

二代目吉右衛門が好きだから、今月はどうしたって行かねば、という気持ちになる。

引退した竹本住大夫師と親交がある彼が座頭格の義太夫狂言は安心できる。

夜の部は「伽羅先代萩」が通しでした。

実は吉右衛門が今また挑戦するあれこれを観たいなら、今年は昼の部だったと思う。「競伊勢物語(くらべいせものがたり)」が半世紀ぶりに掛かっていました。

ここらへんに興味がおありのかたは、上記のリンクから歌舞伎美人をご覧下さい。

わたしは正直、伊勢物語にそれほど興味を覚えなかった。それより玉三郎の乳人政岡(めのとまさおか)を観たい気持ちが勝った。両方行ければよかったのでしょうが、体調がそれを許さない。だんだん観たい演目を厳選していかねばならないのか…。

玉三郎の政岡は、全体的にまるみを帯びていた。母性のまるみ。

政岡は、乳人という立場上子どもに直接愛情を示してやる機会に恵まれず、大事な子どもを嬲り殺しにされても、表情に出す事さえ許されない哀れな女性。敵を自分の手で討てるのが救いといえば救いだが、それはね…。

飯炊きの時は、そういうテーマだし客側もちいさな子どもの声に気持ちがなごんだり、その後の悲劇に思いを馳せる。それ以外でも、全体の雰囲気がふんわりしているのだ。

子どもの台詞が多い飯炊きの場面は、玉三郎が政岡だからなのか、子どもの台詞の間がむずむずすることなく聴きやすかった。役者によってここを面白く盛り上げるやりかたもありそう。2007年8月の納涼大歌舞伎の第三部 通し狂言「裏表先代萩(うらおもてせんだいはぎ)」で、亡き十八代目中村勘三郎の政岡、仁木弾正の二役を観た記憶がうっすらあるのだけれど…。急に行けなくなった友人のチケットを譲ってもらったはずだ。ここでは、子どもたちをうまく乗せていたが、少し間延びした記憶。

それと政岡は茶釜で飯炊きをするので、お茶や炭のお手前がある。それを観られるのもファンにとっては嬉しいこと。歌舞伎役者は歌舞音曲だけではなく、お茶やお花など必須なこと多い。江戸時代だったら、松の位の花魁(大夫)レベルなのかしら。

 

吉右衛門が演じる仁木弾正は実悪*1で、おどろおどろしいところが際立っていた。鼠から姿を変えて、花道のすっぽんから登場するところがわかっていてもぞくぞくする。その登場時演出のひとつとして、本火*2を使っていた(これは以前玉三郎が使うところをEテレで観た)。

仁木弾正は妖力を持つ人物で、花道で台詞もなく火がゆらめくのがより恐さを増長してため息がでた。役者の力量は花道でどのように役の有り様を観客に示すか、なのかと思った夜だったよ。

 

*1:歌舞伎(かぶき)で残忍な悪人の役。

*2:本物の火

RED@新国立劇場小劇場 9月5日 昼

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RED行ってきました。まだ体調よれよれでありつつも、行ってよかった。

小栗旬さんと田中哲司さんの2人芝居。
お芝居は、お客さんにちょっとげーじつ、哲学や文学に触れた気持ちにさせることってたまにはいいのかも。
ひとのこころをどん!と突き動かすことも、もちろん大事なんだけれど。
この話は無理なく普遍的なテーマのストレートプレイを観た!という気持ちにさせる。
わたしはロスコって画家は名前を知っているという程度での観劇だったので、申し訳なかったよよよ。
千葉の佐倉にロスコ作品を展示している

DIC川村記念美術館

があるそうで、行ってみたくなる。
普遍的なテーマとは、思いつくままに父と子(疑似含む)の関係性、世代相違によるせめぎ合い、陰と陽(内と外のイメージ)かな。今まで男性2人だと身体の使い方やお互いの呼吸で、うまく攻撃と防御(緩急とも言う)ができるお芝居を観てきたので、2人芝居は「男女」か「男男」がおすすめです。
「女女」もものによっては悪くはないのだけれど、2人が同じ役をやり続けるタイプはあまり向かない。
この間のメアリ・スチュアートのように、2人で何人もの役をやるほうが観る方も観やすい。女性が社会的にも生きるようになってきた現代劇だとまた違うのだとは思う。わたしがたまたまそういうお芝居を観ていないだけでね。
ということで、とある事情で絵を描き進めづらくなった画家とアシスタント募集でやってきたケンとのお話です。
タイトル通り「RED」がさまざまなシーンでの鍵になるし、2人がかりで大きなキャンバスに赤を刷毛で隅々まで塗り尽くすシーンもあります。今回友人の運の良さで、席が最前列の真ん中ですばらしく観やすかったです。田中さんの汗が飛ぶところや小栗さんの体格が素晴らしいことなど、久々に舞台を観る醍醐味を味わいました。
ロスコが絵を見つめるところからはじまり、同じようにでもまったく違う気持ちと視線で絵を見つめるところで終わる。
小栗さん演じるケンが素直に観客をロスコの絵画世界へ誘います。そしてケンと長い旅をしてきたような心地よい疲れを覚える。
途中2人が本当に食事をしながら台詞を言うシーンがあり、演じる役の上での2人の関係性が進展しつつあることがわかり、観客も少し緊張がほぐれ、観客の反応がダイレクトに伝わるいいシーンだったと思う。
 あまり食事したり飲みものを飲んだりすることは舞台上ではしないと思うけれど、今回はとても効果的だった。台詞を正確に言うというより、その場面では役の中で生きることが優先されていた。
あ、でも同じ小川絵梨子さん演出のロンサム・ウェストは少し食事シーンで本当に食べていたかも。そういう「生」をうまく演出できるひとなんだと思う。
今回戯曲に真摯に向き合ったことから生まれたであろう緻密さが感じられた。身体に台詞がなじんでいた。初日は避けたしね。
絵や芸術について内向きに苦悩する画家を描きつつ、感覚が内ではなく外に向かっているアシスタントの目線で描くので後味はよろしい。
2人芝居の濃厚さをかみしめつつ。小栗さんが年齢と経験を重ねてロスコの役をやるところも観てみたくなったよ。
  

いのちのうた

「Spiral」コンサートに行ってから1週間になるのに、余韻さめやらず。

 CD聴いているだけでも楽しいですが、コンサートは歌にさらに音と光とダンスがあるわけです。

「観客」であるはずのこちらも五感(はたまた第六感までも)フル稼働なステージだったわけです。

 皮膚感覚に残る印象というのかな。

 全身で光一さんの世界を浴びて感じてきたのでなかなかに抜けませんし、まだふわふわ。

 

 コンサートぼけのそのあとすぐ、8月4日に「いのちのうた」放送がありました。

 二人ともきれいな言葉遣いで平和への思いを語り、広島平和記念公園で歌う。

 夜の原爆ドームを背景に歌うKinKi Kidsの歌声がすっと耳に入ってきました。

 祈りの歌声。 

 剛さんが作った『Family〜ひとつになること』の歌詩が、これほどこの平和を願う場所にふさわしいものになるとは。自然と敬虔な気持ちを持つ。

 それほど戦争の辛い記憶が薄れつつあっても、これからも続いてほしい平和への欲求は高まっているということですものね。 

Family~ひとつになること

Family~ひとつになること

 

 

↑この歌の大サビの歌割りがとても好きなので、よかったら聴いてみて下さいね。

 

Family?ひとつになること (初回盤)

Family?ひとつになること (初回盤)

 

 こちらは、通常盤とは違うカップリングあり。お気に召したら。

Spiral @横浜アリーナ 8月1日夜、2日

前回のGravityから約3年。

ファンクラブに入ったばかりの姉名義ときんき友人名義が当たってバンザイ。

横アリ行ってきました。
光一さんがMCで何を話そうとしたのか思い出せないあたりで、
確かにど忘れはあるにせよ、かなりふわふわな様子で倒れてもおかしくない疲労度を感じる。
空調を効かせていても、観客も身体を動かすわけだしとても暑かった。
観てきた今思うのは、ファンに求められているからこそ頑張ってしまうひとだね。
光一さんのパフォーマンスは、ファンへの愛でできているのか。。 
前回のGravity同様きみまろ風なMCをするなかでも、そういう本人の自覚が垣間見える。 
 
照明や装置の素晴らしさは加速していて、これ以上どうしようと言うのだ!という感じ。
天井から通路が降りてくるし、照明は思いのままだし、儚さと力強さと、
性別を超えたセクシャルな愛が感じられる光一さんが作り出す空間。
素敵なダンサーさんたちのサポートと演出も相まって、本人が曲やダンスによって男性的かつ無性的にも女性的でさえもある瞬間があるのだ。
神様に捧げるものが芸能だとすると、光一さんは選ばれた稀有なひとなんでしょうね。
そういうふうに感じる己が何か見てはいけないものを見たのか、という怖れを抱くにいたる…。
うまく言えないけれど、どういうのがセクシャルな愛かって経験値含め人それぞれでしょう、そういう想像する余地がありすぎる!
直裁な「色気」というよりも、愛の雰囲気というのかな。
子どももいいけれど、大人だとより楽しめる異次元な空間です。
 
コンサートの話なのに、抽象的すぎる話になってしまった。
光一さんの歌声は、気持ちはあるのに届きそうで届かない、様々な隔靴掻痒なシチュエーションに合うと勝手に思っている。ちぎっては投げ(わかるひとだけわかってください)、の歌が多いけれど、ね。
5分間のドラマと呼ばれる歌の世界を演じられるのは、きんきさん2人ともの強みで声がマイナーだから、かもしれない。
 
1日夜は、リップサービスや個別のファンサービスはほぼないけれどサイド席のひとたちへ温かな気遣いがあり、スタンドのひとたちへ近づく動きがある。サイド席はダンサーさんの筋肉の動きがわかるくらいの近さで、何が見づらいかというと、反対側からのスポット照明が目に入ることが時々あり、ステージがほわっと見えなくなるのです。ただ照明は刻々と変わるので、ひどく困るとまではいかない。
2日は、スタンドでしたが正面で視界を遮る物がなく、演出意図がわかりやすい席。
照明の繊細さや装置の充実度、機構のこまやかさがすっと目に入る。
メインステの無影灯ごとく如何様にも動くスパイラルな照明必見。
オープニングは、特に映像もなく音楽(インストゥルメンタル)と照明だけで構成されていて、照明さん冥利につきる。
照明は何を見てほしいのか、何を見てほしくないのかを明確に示す。
これを使いこなすと空間を支配できるわけだから、ファンは光一さんの空間に嬉々として閉じ込められに来るわけです…。
次に何が出てくるのかをいつも期待させ、その予想を超えたものを提示してくる。
わくわくするって簡単じゃなくなって久しいのに、それが叶えられるしあわせ。
そして光一さんの演出がわくわくするのは、過去のコンサートを振り返るコーナーをつくることはあっても、安易になぞらないからだと思う。今回は以前の曲をうまく織り交ぜてリミックスにしていた。 INTERACTIONALとディープ。
 
 自分がやってある程度うまくいったことをなぞらないのは、何の分野でも難しい。
ひとは、自分の成功体験から逃れがたい。もちろん1社会人のわたしでさえそう感じる。。
いいスタッフに恵まれて、いろいろ試せるのでしょうね。
 
きんきさん二人のステージつくりの姿勢は私見ですが、やはり違っていて興味深い。
剛さんは、ベースの音楽は変わらないけれど、一度作ったものは完成形として見せてくれて、それをきれいに壊して更地にして、また新しいものを1から作り出す。何度も生まれ変わるイメージ。
光一さんは、違うように見えて実はひとつのものをずっと作り続けていて、それを直してその瞬間は完成形なのだけれど、そこからまた作り替えたい部分がでてきて、自分が作ったものからずっと脱皮していくイメージ。あ、これはSHOCKのことそのままだね。
ソロコンも同じだと今回しみじみ思う。
 
とりあえず、都合がつけば休みが取れれば、チケットが手に入るなら、もう1度観たいステージだった!!
 
 

 

マクベス@パルコ劇場 7月25日(土)昼

行ってきました。

stbk017.hatenablog.com

これを踏まえたつもりなのですが、私にはこのぎゅっと詰まった独白形式は合わないということがわかっただけでした。パンフレットを買ってもいないしHPを読んだだけなのでご参考程度に。

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いのちのうた 8月4日

www.nhk.or.jp

トップにどーんと総合司会のきんきさん。良い表情の写真。

年齢と経験を重ねてこういうお仕事がもらえるのはありがたいことよね。

どういうきっかけでも平和や戦争、原爆について考えるのはいいと思う。

まじめな番組ですが、出演者でもあるんだしどんな曲を歌ってくれるのか楽しみにしてもいいと思うよ。

ことばを尽くして語るのも絵を展示するのもいい。

今回は気持ちを歌に音楽に託すわけだからね。

私は両親ともに九州だからということと、長崎の原爆映画を子どもの頃に観たので長崎の資料館に先に行きましたが、広島もいずれ行こうと思っています。

MAZDAスタジアムの広島カープ観戦とセットにするといいのだな…